写真で振り返る稲作一年③
一列刈っては、稲を担いで稲架まで持っていき、架け、を何往復も繰り返しました。干し終わった稲は軽いのですが、刈りたての稲は水分が含まれているので、沢山持つとすごく重たいです。肩に担いで運ぶのでこの時もヒエ刈りの時のように顔や首が草負けしました。
終わりが見えてきました
この時は結婚しておらず、妻とは遠距離でのお付き合い中だったので、何日かかけてひたすら一人で稲を運びました。本当は何人かでやる作業です。
ついに終了
なんとか干し終わりました。天日や風に当てて十分に稲を乾燥させます。天日干しの米は最近あまり見かけなくなりましたが、この稲架にも色々な地域差があり面白いです。
また、天日干しだと、稲の茎を付けた状態で当分乾燥させるため、茎に残っている栄養分が稲穂に降りていく猶予があって、コンバインで稲刈りをするのに比べて米が美味しいのだとか。
このあと乾燥した稲は、コンバインの脱穀機能を使わせて頂き、脱穀を行いました。収量はうろ覚えですが、六俵とちょっと(360kg強)くらいだったと思います。田の面積当たりではかなり少ない方です。ヒエに養分を奪われてしまったことや、追肥をしっかりしなかったことが原因だと思います。
自給米、人生初の一杯目
畑で作ったじゃがいものコロッケと一緒に食べました。
もちろん米以上の味がするわけではないのですが、米を作ったという達成感や苦労を思うだけでも感じる美味しさは一入どころか八千入です。やはりものに思いを込めるというのは大切なことですね。
一年目の稲作は上手くいかないことや初めての事の連続で、沢山の方にサポートをして頂きました。年間を通してアドバイスを下さったり、農業機械を貸して下さった農家さんも収穫の際には笑顔で「収穫の喜びだなー!」と言って一緒に喜んで頂きました。本当によい環境だと身に沁みます。
稲作を通して地域の方と関わったり、集落で圃場を維持している環境に身を置いて、地域の暮らしが色々な方とのつながりで成り立っているということや、場合によっては自分たちの食を繋ぐために集落ぐるみで協力し合い物事を進める必要があることを改めて感じました。
以前は『「自」給なのだから全て自分一人で』と意気込むこともありましたが、そういった地域の現場と、自分のやっていることを照らし合わせていく中で、今では自分が消費するものを自分が主体的に動いて確保していくことが広く自給と言えるかな、と考えるようになりました。何より先人たちが大自然の中に置いて共同体で協力し合って生きてきた歴史を考えれば、「自分一人で」に拘りすぎるとやっていることが不自然になり、そこからはあまり人間本来の豊かな生き方は見出しづらいような気もします。それでは本末転倒です。
とはいえ、それはお世話になりっぱなしの状態をヨシとするための建前ではありません。そういった場合も、この共同体の中で何らかの形でお世話になったお返しがちゃんとできたり、そこで生きていく上で一人前と認められるように努めたりと、そこまで含めてできれば、それが善い形での自給ではないかと、そう思うわけなのであります。
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